超凡大学生

どこにでもいそうでいない大学生のつぶやき

個人を尊重する社会は、非常に寂しい

この記事に共感をする(言葉の末端が少し強すぎたりなどあるが、話の大筋には同感しかない)↓

plagmaticjam.hatenablog.com

 

生きるためならスーパーで豚バラと白菜でも買って鍋にすれば生きることはたやすい。餓死することはほとんどありえない。

社会的側面では偏見などもいまだあるにせよ独身差別やLGBT差別も少なくなり、女性も働きやすくなりつつある。

海外旅行に行くのも格段に安くなった。

「外部条件的には生きやすくなっている」

 

個人と個人が侵食しない安全な関係だけが関係として成り立つ社会は完璧な社会である。

そこに自己を脅かす戦慄はない。異性愛者がレズビアンやゲイをくどくのはタブーであり、好意がない異性同士が言い寄るのはハラスメントとなる。

そういったルールが出来上がっていくと他人が他人を見る時にも自由主義個人主義的観点から干渉しないようになっていく。他人が自己に干渉しないようになっていくとますます個人主義が加速する。

 

一見すると個人が自由に生きていい社会はいい社会であるかのように見える。しかし同時に自由を尊重する社会に生きている人間は他者から侵食されない。

 

※上記は引用

 

私の働く外資企業では非常に「多様性」や「個人の尊重」を強調する姿勢が強い

 

ただ、私がこの記事を読んでパッと考え、思い出したことは個人を尊重すると、他者と交えにくいということである。

もう少し言うと他者とコミュニケーションをとることが恐い。

 

今日、ご飯に誘っていいのか

いま、話しかけていいのか

さっきの表現は、不快ではなかっただろうか…

 

私がこれまで個人の尊重を心がける習慣が足りなかったからかもしれないが、

想像以上に個人と個人をむすびつける「コミュニケーション」というものに時間と労力がかかる。

 

コミュニケーションの対象先に、例えば上司に、趣味を聞くことさえ、難しい

なぜなら

「相手は仕事を中心に生きてきていて、趣味を持たずに生きてきてきたことに非常にコンプレックスを抱えており、その系統の話題に非常にセンシティブ」

という可能性があるからだ。

 

もし、この場合にわたしが

「趣味はなんですか?」

と、聞いてしまうと

 

相手に

「人間として趣味くらい持っているのが当たり前」

という前提をおしつけている可能性があり

 

人によっては

「趣味をもっていないことは良くないことなの?この人は趣味を持たない人の存在価値を認めないのかしら?」

と懸念を抱いてしまうかもしれないだろう

 

そのために、「入社時の自己紹介」という技があるが、その場合でも「個人の尊重」が最優先事項である場合、趣味を言わなければならない理由はない。

 

会社としても、「個人の尊重」をしている限り、自己紹介を強要することはしてはいけないかもしれない。

 

そもそも、自己紹介をするかしないかも個人を尊重しなければならない。

 

そういったことなどを踏まえ、他の要因も含め、いろいろ考えた結果行き着く先が

 

「そこまでして(コミュニケーションの準備の時間や労力をかけて)趣味を聞く必要があるだろうか」

「そこまでしてこの人に話しかける必要はあるだろうか」

「自分の仕事をまずやるか」

 

である。

 

他者と交わること、他者とコミュニケーションをすることにネガティブになり

結果として「どう交わるか」ではなく、「そもそも交わらない」という選択をとる

 

ネガティブという表現が微妙であれば、上に掲載した記事の言葉を借りてこう言える。

 

「他者の自己を脅かす戦慄になりたくない

他者に侵害するものになりたくない

他者に不可侵でいたほうがリスクが少ない

だから、他者とむすびつかない、コミュニケーションをとらない」

 

個人を尊重する社会は、非常に寂しい

 

 

大前提

ご無沙汰してます。

 

人として生きていくにあたって

大前提となることがあると思う。

なんとなく思いつくままに書きたい。

 

「そもそも人は、他人の人生など気にしていない」

 

「人はだれも、自分のことを完全には理解してくれない」

 

「同じ痛みや喜びは、自分以外だれも感じられない」

 

「結果は変えられない、プロセスは変えられる」

 

「多くの人が、それを『本当にやりたいことだと思い込んでいる』。例えば、子どもの頃からアニメが大好きだったという理由だけで、声優になろうと決めつけてないですか。『子どもに夢を与えたいから』などと言っているけれど、そのためには『本当に声優でなければダメですか』。」

 

「それ(対象)は、コントローラブルか?アンコントローラブルか?」

 

「物事・出来事は無色透明」

 

次に、社会人として生きていくにあたって

大前提になることがあると思う。

これも、なんとなく思いつくままに書きたい。

 

「キャラクターはひとりの時間で作られて、キャリアは公共の場で作られる」

 

「世界一にならなくてもいいと理解して、受け入れることが大切。自分と似たようなスキルを持っている人はこの世界にたくさん、たくさんいる。何百人と同じスキルを持っている人が世界中にいる。しかし、一流と二流を分けるのは、人から信頼されて仕事を任される人とそうでない人の差は、『効率的かつ効果的に』コミュニケーションができること。そして最も大切なのは、何であろうとクライアントが明確なコミュニケーションをできていると感じること」

 

「成功している人はみな“質”に対して一切妥協しない。言い訳ナシで質の高い仕事をする。これにコミットする。クライアントが提示した金額で『最も質の高い仕事』をする、これが何度もあなたに仕事を頼みたくなる理由です。」

 

定量評価は給料に直結するが、定性評価はキャリアに直結する」

 

※だれかの言葉のそのまま引用もあるし、私が若干歪曲した引用もあるし、完全に私の言葉もあります

【落合陽一】自分のポジションをとらないと、なにも始まらない

 

 

 

このツイートを見て本当に共感できるなあ。と思った。

 

僕はここ何年間か多くのチャレンジしてきた

それは、プログラミングであったり、ライティングであったり、仮想通貨投資であったり、ボルダリングであったり、DJであったり…etc

 

その度に良いことも悪いことも体験し、学びを得た。

 

ただ、毎回思うことは、

「これやりたいです」

「これが好きです」

と言わないと何も始まらないということだ。

 

僕がDJをはじめた理由は

音楽が好きということ。

また、その中でもEDMやヒップホップをよく聴くということ、

が挙げられるかもしれない。

 

ただ、それだけではDJはやらなかったと思う。

 

昨今は「パリピ」という言葉がひとり歩きし、

EDMが好き、というだけで

チャラい、遊んでそう、といったレッテルが貼られる。

「クラブに行く」「DJ」という単語もそういうたぐいだ。

 

僕は人からの評判を気にしやすい人間だったから、

「DJに興味がある」なんて誰にも言えなった。

親しい友人にさえ。

よくわからないけどなんか恥ずかしかったし、

後ろめたいことをするような気分だった。

 

そんなある日、親しい友人とごはんを食べているとき、音楽の話になり大いに盛り上がった。

そして、友人から一言

 

「○○(僕)って、EDMとかDJの話してる時本当に楽しそうだよな〜!サッカーしてる時とかによく似てる笑(ちなみに僕はサッカー大好き人間です)」

 

その一言にビビっときた僕はその親しい友人に打ち明けた。

「実はDJやってみたくて…」

 

それからは面白いくらいトントン拍子で話がすすんだ。

「友達が渋谷とかでけっこう有名なDJとしてやってるから紹介するね!」

 

また、気付いたらもうひとりの親しい友人もその話を聞いたらしく

 

「アーティスト写真とかあったほうがかっこいいし、集客につながるんじゃない?今度ミスコンとかの写真撮ってる友達紹介しようか?」

その一方、

一部の友人には

「DJやるんだって?チャラ!どうしたのいきなり?(嘲笑)」

「DJってかわいいことヤれるの?笑」

と言われた。(けっこうメンタル的にやられます。)

その中でも、「楽器は弾けないけど、音楽で人を魅了したり、感動させたり、楽しんでもらいたい」

そういう思いを僕は誠実に伝えるべき人に伝えた。

そして

気付いたら僕は六本木の大きなクラブに立っていた。

なんと友達に「DJに興味が…」と話してから2カ月後のことだ。

 

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こういう話をすると、「友達に恵まれた」とか色々言われる。

もちろん友達の力は大きかった。

そこはまったく否定するつもりもない。感謝し続けている。

 

ただ、事実、親しい友人以外にもたくさんの人を巻き込んだことをしっかり伝えたい。

 

1年以上会っていない顔見知り程度の友人?にもLINEを送り、協力を求めたり

知り合いの友達の友達までなんとか連絡をとり、お会いしてもらったこともある。(お互い誰?ってかんじ。)

時には、ネットワークビジネス関連の人にたどり着いてしまい、その人のコミュニティのパーティーにも参加した(めちゃくちゃこわかった。)

 

結果的にすべてがいろいろ繋がって、DJになり、六本木でまわすことができた。

 

だから、「友達に恵まれた」だけではない

そこには自分の行動力があったし、

友達以外の赤の他人、大人の協力があった。

本当にそう思う。

 

そして、その行動力の源であり、大人が僕に協力してくれる理由が

 

「DJをやりたい」

「音楽が大好き」

 

という僕の正直な気持ちだったと思う。

ちゃんとこの気持ちを伝えた。

 

批判や嘲笑はとてもあった。

それはそれは偏見の塊だった。

被害者ぶるように見えるかもしれないが本当に傷ついた。

 

「DJをやりたい」と言うだけでこれだけ笑われるとは思っていなかった。

さらにその影響から「DJで忙しそうだから…」と言って、遊びに誘われないこともかなり増えた。

これはかなりメンタルにきた。

「DJ」というだけで仲間はずれにされたからだ。

 

それでも僕は、「音楽が大好き」「DJをやりたい」と言い続けた。

 

ポジションをとった。 

友人から馬鹿にされても僕は「ミキサーやらなんやらで、音楽を流し、人を魅了する人」というポジションをとった。

 

そして、そこから全てがはじまった 。

【言いたいこと】

 

「なにかをやりたい」と言う(発信する)ことは、その「なにか」に偏見を持っている人から嫌われたりすることがあるということ。

 

今回僕は「DJ」であったが、これが「アニメ」とかでもそうだ。

「アニメなんて」と偏見を持っている人から怪奇な目で見られるだろう。

 

考えてみれば、なんでもそうだ。

僕が18年間やってる「サッカー」も

「サッカーなんてなにが面白いの?野球だろ」と考えて生きてきた人には、僕の人生なんて不可解だろう。

 

そう、なにか自分の中の「意志」を「発信」した瞬間、必ずそれを理解できない人がでてくる。

それはしょうがないことだ。

違う人間で、違う人生を生きているから、違う考えを持っていてしょうがない。

 

ただ、他人が違う考えを持っているからと言って、自分の考えが「間違い」であったり「変」ということではない。

 

理解できない人がいても、恐れず自分の「意志」を「発信」し続ける。

 

これを「ポジションをとる」と言うと思う。

 

嫌われたくないからといって

「サッカーもいいし、野球もいいし、卓球もいいし、、、」と言っていてもいいが、それではなにも始まらない。

 

たぶん僕が

「DJとかちょっと恥ずかしいことかもしれないんですけど、ちょっとやってみたいな〜とか思ってて、EDMだけじゃなくて、クラシックも大好きかもしれないし〜、、、」

とか曖昧な発信をしていたら(曖昧なポジションをとっていたら)、

きっと六本木でDJなんてできなかったと思う。

 

そう。だから、

「サッカーはこんなとこが良いし、あんなとこが悪い。野球もいいとこはあるし〜」とか言う評論家ではなく、

 

「僕は○○が好き」とポジションをとれ。

 

自分の人生にアクションを起こしたくない人にとってこの文章は無縁だろう。長々と申し訳ない。

 

今の自分の人生にアクションを起こしたい人にはなにか感じてほしいです。

 

【ちなみに】

 

「批判や嘲笑」はまじで萎えます。

これは本当。

 

「嘲笑とか気にならなかったよ〜」とか言う英雄談みたいにするつもりはぜんぜんないです。

本当にきついです。

僕は萎えまくりました。

 

あと、僕はサッカーのことまだまだぜんぜん大好きですけど、一定数のサッカー好き友達から距離を置かれて、本当に今も悲しいです。

サッカー好きの気持ちは全く変わっていないんですけどね…

 

こういうことはできれば避けたいことだけど、なかなか僕は避けれませんでした。

かなりきついです。

 

そういったことも含め、

「ポジションをとる人」「ポジションをとろうとしている人」を僕は本当に尊敬しています。