人生で最大の痛みを感じた。「わかるわかる…」と人は言うけれど、誰も他の人の痛みを本当に感じることはできない
私は相談をよく受ける
将来のことも、健康のことも、恋愛のことも。
人はいろいろな言葉を紡ぎ出してくれる
そして私に思いをぶつけてくれる
そして、私なりに私は理解に努め、私なりに隣にいる
ただいつも思うのは「共有」は「言葉」のみで
本当の意味での「痛み」までは「共有」できない
人は様々な言葉で私に伝えてくれる。
様々な相談の受け方があるから一概には言えないが、
私はよく、できるだけシチュエーションを想像し、できるだけ「共有」「共感」し、できるだけ「隣」にいて支える。(あまり余計な助言とかは言わず基本は「隣」で「聞く」)
それでもいつも「共感」の限界があると感じている。
それが「痛み」だ。
身体的な痛みもそうだし、メンタル的な痛みは特にそうだ。
本当にどれだけ心がえぐられているか、本当にどれだけ痛いのか。
これは自分が相談する側の時も強く感じる。
めちゃくちゃ頑張って伝えても、本当に自分がどれだけ苦しんでいるかは自分しか理解できない。
人は理解に努め、隣で話を聞いてくれるが、どれだけ本当に痛いか、同じ痛さを感じてくれはしない。
もちろん理解しようと努めてくれるだけで大変ありがたい。
そういうことに文句が言いたいわけではない。
ただ、他人の痛みを、本当に同じ痛みを、本当に共有することってできないよね
ということをだんだん悟ってきている。
どれだけ考えても、どうしても、どうやっても、その人に自分はなれない
人と人は交換できない。
人の痛覚と痛覚は交換できない。
自分は自分でしかなく、人は人。
「もしあの人になれたら、同じ痛みを本当に感じられたら、もっと共感して、もっと支えられるかもしれない、もっと自分になにかできることがあるかもしれないのに…」
高校生くらいの時はそんなことを本気で考えていたが、だんだんとそれは無理ということに気づいてきた。
どうやっても自分は自分でしかないのだ。
他人にはなれない。
逆も然り。
他人はどうやっても自分になれない。
誰も他の人の痛みを感じることはできない。
だから、自分で自分の痛みをどうにかしなければならない。
自分の痛みは自分にしかわからないのだから。
そして、私は人生で最大の痛みを感じた。
そう、「自分の痛みは自分にしかわからない」という痛みだ。
「他人の痛みは他人にしかわからない」という痛みだ。
どういう痛みか、と言われてもきっとこれも私にしかわからないだろう。
なんとなく寂しいというか、、、
人間ってなんか孤独だな、と感じるというか、、、
とても精神的な痛みだ。
究極的には、だれも自分のことをわかることはできない
究極的には、自分もだれのこともわかることはできない
だから、
自分で自分の痛みを対処できるようにならなくてはいけない。
自分で自分の機嫌をとれるようにならなくてはいけない。
自分で自分の道を決めなければならないと思う。
自分で自分の人生を歩まなければならないと思う。
就活の困難…承認欲求だけではだめ?厳しい家庭に生まれた子供の使命
私の就活はほぼ終わりましたが、イチ就活生として実感したことをつらつらと。
背景
私は過保護な家庭で生まれました。
過保護にも様々な種類がありますが、私の家庭は
「監視」と「目標設定」が強かったです。
どういうことかというと、
監視、というのは「いつどこでだれとなにを(どう)していたか」ということに関して厳しく追求する、または私の行動に関して制限を激しくかける、ということです。
目標設定というのは、「なにかしらにおいて高いレベルの課題」を押し付けることです。
絶対に東大に行け、ということではありませんでしたが、テストは100点とって当たり前、スポーツでは結果を残すのが当たり前、というものでした。
そんなこんなで「親に喜んでもらうために」であったり「親に褒めてもらえるように」であったり「親に怒られないように」生きてきました。
要は親のために生き、親のいいなりになっていました。
親の言う通りにしないと、親の目標設定をクリアできないと、「絶対にうちの家庭以外でおまえは生きていけない」という脅しを受けた上で「出て行け」と言われたり、精神的に追い込まれるような叱られ方をしました。
監視、に関しても同様です。親が求めるような行動規範をとらないと激しく怒られました。行動の制限に関しても、他の家庭と比べてどうなるものでもありませんが、当時の私にとっては友人関係をうまく築くのが困難になるようなものでした。
そうした結果、幼いながら自分の行動の判断軸であったり、モチベーションの源は
親からの「承認欲求」であったり、「親にどう見られるか」でした。
また、同時に私の場合はテストで100点とる自分じゃないといけない=完璧な自分ではないといけない、というようないわゆる「プライドが高い人間」でした。
就活で気づいたこと
そんなこんなで生きてきて、こないだ就活を迎えました。
そして就活の中で、社会で生きていく上で大事なことを一つ学びました。
それは「『自己成長』のための行動」であったり、「『自分』から生まれるモチベーション」の大事さ。
「自分はどうしたいか」です。
多くの人事の方と面接する中でこう言われました。
「「褒めてもらいたいから仕事をする」というのは一つ大事なモチベーションではあるかもしれないけど、それだけだと大変だよ。」
簡単に言うと、
意思決定の判断軸であったり自己評価というのを他人に完全に渡してしまうのは、今後社会人生活をする上でとても大変だよ、と教えてくれました。
( 「社会人として生きていくのはきついよ」と示唆してくれました)
理解することはできました。
「あなたはどうしたいの?」というマインドセット?で有名な企業もありますし、そういうことが大事ということは認知していました。
しかし、どうもふにおちませんでした。
いままで「親がこうしろ」と言ったのに従って生きてきたのに、言われたことを完璧にこなす自分にプライドを持っていたのに、
いきなりこんな大事な時期になって「あなたはどうしたいの?」と聞かれることに。
「自分はこうしたい」というマインドセットは本当にとても大事です。
だから今回その考えを否定したいわけではないです。
私が気になったのは、過保護な家庭で生まれ育ってしまった子供はいつ、どうしたらよかったのだろうか。
どうやったら「親のいいなり」を抜け出し「私はこうしたい」というマインドセットを手に入れられたのだろうか。
ということということです。
どうすればよかったか
解決策は3つくらい思い浮かぶ。
1,「自分はどうしたい」という欲求が全くないわけではないのだから、それを強く声高々に叫び、実行する。
2,周りの人が「自分はどうしたい」といって活動しているところを見て学ぶ。
3,周りの人の家庭に一時的にでも潜入し(お泊まり会とかなんでもいい)、自分の家庭が「普通」ではないことを知る。
1,に関して
幼い頃や小中学校では特に、多少わがままでも「この部活に入りたい」であったり、「これが食べたい」「こんな服が着たい」という欲求に素直に従うべきです。
そういったことから、小さくてもいいから「たくさんの選択肢から『自分』が選んでいる」という実感を得ることが大事だと私は考えます。
それが「自分はどうしたい」を考える第一歩になると思います。
2,に関して
友人がゼロの場合はこれは不可能ですが、私はかろうじて友人がいました。そして、その友人は自分とは違う家庭を持っていました。
そのため、「自分はこうしたい」という欲求で行動している場面を見たことがあります。
そういった場面で「『自分はどうしたい』って親に主張していいんだ!」であったり、「『自分』で選んでいいんだ!」ということに気づくことが大事だと思います。
これも、先程と同じように「自分はどうしたい」を考える第一歩になると思います。
3,に関して
一度、親元を離れるというのは大変重要なことだと思います。就活の時にはじめて「社会」と対峙するようでは厳しいです。
過保護な家庭で生まれた子供は「その家庭のルール」が「社会のルール」かのような錯覚をしています。「家庭の普通」が社会でも「絶対的普通」だと思っています。
そのため、友人の家に泊まりに行くと驚きです。
テストで100点とらなくても良いんだ、スポーツで結果ださなくてもいいんだ。
「あれ、うちって普通じゃないのかな?」「結果ださなくていいの?プレイドないのかこの家庭は?」
そういったことから、「もしかしたら自分の家庭は数ある家庭の一つで、ここでの普通は地球規模でみたら普通ではないのかもしれない…」と考えることが大事だと思います。
要は「『自分』でものごとについて考える」きっかけをつくるということです。
大学生になるような年齢になる前に、子供はどうにか1,2,3をやるべきです。
つまり、
「『自分』で考えていいんだ」という感覚と
「『自分』で選んでいいんだ」という感覚を
なるべく早く得ることが大事です。
過保護な家庭の問題点
では、なぜ1,2,3を私がやらなかったか。
これから書くことはひとによっては言い訳だ、というでしょう。
それはそれで問題ないです。ただそれについて議論するつもりとかは毛頭ないので、こんなブログ一生見ないことをオススメします。。。
たぶんきっとそのうちあなたのお気を煩わさせてしまうから。
本当に迷惑をかけるつもりは全くないので、お互いのためにコメントとかなにもつけず早くこの記事を忘れさってほしいです。。。
1,「自分はどうしたい」という欲求が全くないわけではないのだから、それを強く声高々に叫び、実行する、に関して
シンプルに、基本的に、ほとんど声高々に言えませんでした。
それは冒頭でも書いたように、親に怒られることが怖かったり、家を出ていくと生きていけない、と幼い頃から刷り込まれていたからです。
刷り込みというのは「わかれ」と言っても「わかる」ようなものではありませんが、想像はできるのではないでしょうか。
「親がいないと生きていけない」と幼い頃から刷り込まれ「親の言うことに従わないと追い出すぞ!(親がいない状態に追い込まれる)」と言われた時のこどもの心理状態を。
<問題点1>
上記のような状況では「自分がどうしたい」といったことはなかなか優先できない。
それより、「『親がこう』と言っているから行動する」という判断基準になってしまう。
2,周りの人が「自分はどうしたい」といって活動しているところを見て学ぶ、に関して
私は友人が「『自分』で選ぶ」を実行しているところを見て、何も考えなかったわけではありません。
もちろん反抗期も迎えましたし、親に物申したことがあります。
「私も『こうしたい』と言っていいはずだ!」と考え、声高々に数回ですが、叫びました。
しかし、基本的にそれは2パターンで打ち破れます。
1パターン目は「うちはうち、よそはよそ」です。
うちはそういう家庭ではない。おまえはまだそういうことができるこどもではない。
そういった返答を受けると、少なくとも幼い頃の自分は何も言い返せませんでした。
2パターン目は「○○になったらわかる」です。
イメージしやすい例を挙げると、
親が間違いなく、子供に大きな「ミス」を犯した場合でも私の家庭では親は謝りません。子供の気に入っているものを壊した、とかそういう時のことです。
それに対し私は「これは『うちはうち、よそはよそ』ではなく、世間一般、社会としておかしい。人として、誰が対象であろうと、間違いを犯したら謝るべきだ。土下座しろと言っているわけではない。『ごめんね〜』の一言でも言うべきだ」と言いました。
しかし、親は「あのね〜。もうわかってないな〜。○○(私)も大人になったらわかるよ」と言うのです。
これで私は言い返せず議論は終了。大人になったら言ってやろう、と誓うしかないのです。(大人になったらっていつでしょうね笑)
当時サッカーをしていた自分は「サッカーをやらないとサッカーのおもしろさは(全部は)わからない」ということくらい少しは理解していたので、「大人にならないとわからないことがある」というのは想像できました。
だから、何も言い返せませんでした。
また、その返答以降に子供の私がなにか言うと、逆ギレがすごかったので、なにも言えませんでした。
そういったことから、少し「自分で考えた」対抗策も見事に打ち破れてしまいました。
<問題点2>
議論がそれ以上進展しないことや、それ以上に「自分で考える」と怒られるため、「自分で考える力」のようなことがあまり身につかない。
3,周りの人の家庭に一時的にでも潜入し(お泊まり会とかなんでもいい)、自分の家庭が「普通」ではないことを知る、に関して
私の家庭では、「監視」もありました。
「〜時までに家に帰る」が絶対的にあったため、基本的に遊びはいつも途中で友人の輪から抜けていました。
もちろんお泊まり会なんてもってのほか。
そういったことから、なかなか「自分の家庭の『普通』が世間一般の『普通』」という思考から抜け出せませんでした。
周りの家庭もみんな自分の家庭と同じと思っているので、それ以上深く考えません。
<問題点3>
「普通」とかいう言葉に疑問を持ちにくく、「自分で考える能力」が身につかない。
結局どうすればいいのか
いろいろ書いてきましたが、まとめるとこうです。
過保護の家庭の問題点
→「自分で考える能力」や「自分が『選ぶ』という自覚」が芽生えにくい
過保護な家庭で育った子供の特徴
→判断基準は自分ではなく他人(親)、モチベーションは自己成長欲求というより、他人からの承認欲求
社会では
→判断基準は自分と他人どっちも大事(「自分はどうしたいか」という基準が学生より求められる)
→モチベーションは自分と他人どっちも大事(他人はアンコントローラブルなため、「なぜその行動をとるのか」という理由が他人だけにあるとモチベーションを他人のせいにしてしまう)
したがって、
過保護な家庭で生まれた子供は社会で求められる適性を満たしにくい。
良い企業≒「『自分で考える人』や『当事者意識が強い人』が多い」とすると、そういった企業の採用基準は「自分で考える」が一つ大きな要素になります。
過保護な家庭で生まれた子供はそういった「良い企業」に就職することは困難かもしれません。
結局どうすればよかったのでしょうか。
子供はどうすべきだったのでしょうか
→なんとかして親に反抗してでも「自分で考える」環境を創るべきだった…?
これは至極まっとうだと思います。
私にも、もっとできたことがあったと思います。
ただ、実際に就活になるまで本当に親が怖くて怖くて、「自分で考えること」から無意識に避けてきたのも事実です。
それに関しては言い訳と言われてもいいですが、
「本当にこわかった。親の言うことを聞いていれば怒られないから、そうしていた」としか言いようがありません。
自己責任論
よく今の時代はPCがあればなんでもできると言います。
たしかにそれは本当だと思います。
Progateなどといった無料の学習サービスや低価格のオンライン講座は今世の中に溢れています。
だから子供はどうにかしてどこかのタイミングで「自分で考える力」が足りないことに気づき、 そういったサービスを「自分で考えて」利用したり、「自分で考えて」インスタグラムのフォローワーを増やすような施策をやってみるべきかもしれません。
ただ、私は、自己責任論というのはあまり他者に向けるべきものではないと考えています。たしかにその子供が自分で人生を切り開かないのは、意思を持つ人間という点においてもったいないことです。
ただ、実際の経験者から言わせてもらうと、社会や他者を見ることができないと、本当に下記のようなことを考えることは難しいです。
「自分が自分の人生を生きていて、他人は他人の人生を生きていて、親は親の人生を生きていて、友達は友達の人生を生きていて、自分しか自分の人生を生きることはできない。自分で自分の人生は選ぶんだ」
だから就職活動まで気づかなかった人はそこで「自分で人生を選ぶ」ということに気づき、そこから頭を上げましょう。この事実に対面したときの衝撃と落ち込みは半端ないですが、やるしかありません。死ぬわけにはいかないのです。
ただ、それを他人がその子供に「おまえが悪い」という必要はないです。
自己責任論は自分で認識していれば問題ないです。
子供は自己責任論を突き詰めすぎると、「この家庭で生まれた自分が悪い。」
というところまで振り返ります。こうなるとあとは鬱などに一直線です。
自分は実際になりかけました。
とてもお気持ちは察します。
本当に。
就活の難しいところ
子供のせいではないけど、雇わない会社が悪いわけではない
自分で考える能力が育まれなかったのは子供のせいだけではないと思います。
ただ、だからといって企業があえて「自分で考えることができる子供」ではなく、「自分で考える能力に乏しい子」を採用するのも難しいでしょう。
難しい家庭で生まれた子供は「良い企業」に就職できないのか?
先程も述べた通り
過保護な家庭で生まれた子供は「良い企業」に就職することは困難かもしれません。
これは子供のせいでもなく、企業のせいでもない。
というかだれかのせい、という議論があまりよくない。
ただ、とにかくわかるのは
「過保護な家庭で生まれた子供は就職活動で苦戦する」ということだ。
だれのせいでもないが、こういった就職活動の現状はある。
ごく一部の人間に限った話だが、ただ内定がとれないといった就職活動の難しいところだけでなく、
就職活動にはこんな難しいこともあると
だれかが認識してくれると、少しうれしいです。
長々と失礼しました。
コメントとかあれば、なんでもどうぞ。
AI、BI、そして、CIの時代 「最後はヒトだったよ」
AI(Artificial Intelligence、人工知能)
BI(Basic Income、最低限所得保証)
CI(Community Identity、共同体同一性)
今後の世の中の流れを就活が一段落してきた学生が考察したい。
なにかと言うと、AIとBIの流れからCIの世の中になるんじゃないか、という妄想話だ。
かなり頭のおかしい妄想に聞こえるかもしれないが、最後まで読んで欲しい。
少しは理解して頂けるのではないだろうか。
就活をしていて感じた、あの違和感と未来を綴りたい。
今日の目次はこんなかんじだ
- これまでの時代
- いまの時代
- これからの時代
- そしてその先の時代
- まとめ
1、これまでの時代
まず、1990年代後半以降のインターネットの普及やWebサービスの登場と共に、「事実」となるデータが生成される範囲を広がっていった。
それをBI(Business Intelligence)という。元祖BIは、経営・会計・情報処理などの用語で、企業などの組織のデータを、収集・蓄積・分析・報告することで、経営上などの意思決定に役立てる手法や技術のこと。BI技術は、経営判断上の過去・現在・未来予測などの視点を提供するものだ。
BIという技術は膨大なデータの中から、人間が意志決定するために役立つパターンや特徴を見つけやすいように表やグラフに「見える化」することに主眼が置かれてきた。
あくまで、意思決定は人間が主体であった。BIによって見える化された経営課題などを、「人間が」特徴を見つけ出し、「人間が」推論、判断するための作業を行う。
元祖BIでは、課題のパターンや特徴を見つけ出す作業は人間に大きく依存していた。
2、いまの時代
2010年代になるとAIが台頭してきた。
AIは何でもできる高度な知能機械というイメージがあるが、現実には、意志や意識、好奇心や課題の探求・開拓といった人間の脳には本来備わっている機能はない。
従ってAIは、人間が経験や知識などに基づいて考え、判断し、行動する認知の過程を支援する手段である。
そして、 AIの中核となるのが機械学習。これは、データを分析し、推論や判断を行うためのパターンや特徴を計算で取り出すための仕組みだ。
AIは経験や勘にたよるのではなく、事実から生みだされるデータに基づくことで、的確な意志決定が下せるよう支援してくれる道具であり、統計的手法を駆使し、そのデータに内在するパターンを見つけ出すという機能がある。
AIは、元祖BIではカバーできなかった「パターンを見つけ出す」ことや、「特徴を見つけ出す」ことを機械自身にやらせるところが革新的なところである。
そして、扱えるデータ量もビッグデータと言われるように、量や種類ともに膨大になった。人間の能力だけでは、膨大なデータに内在するパターンや特徴を見つけ出すことが困難になったこともAI台頭の背景にある。
BIの出現から20年もしないうちに、コンピューター性能の向上やアルゴリズムの進化があり、「パターンの発見」なども機械に任せることが可能になったのだ。
昨今は、脳科学の知見を取り入れた「ティープ・ラーニング(深層学習)」という手法が登場し、機械学習の機能や性能がさらに高まっているという。(文系素人知識)
こ機械自身に事実に基づきデータの解釈をさせ、推論や判断さえも委ねようというところに元祖BIだけの時代とAI時代は大きな違いがある。
もちろん、最終的な判断は人間の役割とする場合も多いかもしれないが、AIを利用した「自動運転車」などは、運転に必要な様々な判断を機械に委ねている。既に駐車を完全自動でやってくれる車が民間で売り出されており、そんな車を都内でも見かけることがあるだろう。
3、これからの時代
AI(Artificial Intelligence、人工知能)とBI(Basic Income、最低限所得保証)は今後、世の中の根底を変えるだろう。
進化を続けるAIが「人間がしなくていいような仕事」を奪い、BIが「仕事をしなくていいよ」と言うのだ。
具体的にはAIなどを扱う高度な知的労働階級と、職を失う単純労働階級の二極化(デジタルディバイド)が進む。そして富の再分配の一つの方法としてBIが行われる。
富の再分配の一つの方法であるBIとは、国家が無条件に国民に対して最低限の生活を保障する額の現金を、国民全員に無条件・無期限で給付する制度だ。生活保護や国民年金と同水準の1人当たり8万円と設定すると、夫婦に子ども2人の家庭では32万円の給付になる。もちろん使途は自由だ。長所は国民であることのみが条件というシンプルさと、官僚や行政の差配が利かないことだ。
2015年、野村総合研究所から「日本の労働人口の49%がAIに置き換えることが可能」という内容の発表がされた。2017年末、メガバンク3行がAIを活用して大規模な人員削減に踏み込むと発表した。
AIがつまらない仕事を置き換わってくれる。
BIはあなたに「仕事しなくていいよ」と言う。
そして遂に、このブログの最終テーマに行き着く。
それでもあなたは仕事がしたいか?
「何のために生きるのか」
「何がやりたいのか」
AI、BIによって、「働かざる者食うべからず」から「働かなくても食ってよし」へ。
夢のような大転換が起きる。
働かなくてもいい世界が訪れる。
働かなくても良い世界は単純に理想郷とは限らない。退屈という不幸がある。人間はラクを求める怠惰な一面もあるが、楽のために努力したり興味を持ったりする一面もある。何らかの鍛錬、修練、学びを欲する一面が人間にはある。
経済活動に人間のかかわる割合が減る分、自己実現なり社会貢献なりのために人間は生きられるようになる。
そのときあなたは
「何のために生きるのか」
「何がやりたいのか」
4、そしてその先の時代
CI(コーポレート・アイデンティティ)とは、企業文化を構築し特性や独自性を統一されたイメージやデザイン、またわかりやすいメッセージで発信し社会と共有することで存在価値を高めていく企業戦略のひとつのことだ。
一見これはただの企業戦略の話だが、
私が提唱したいのはCI(コミュニティ・アイデンティティ)だ。
コミュニティとは「共同体」
アイデンティティとは「あるものがそれとして存在すること」、またそうした認識をさす。広義には、「同一性」「個性」「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」「特定のある人・ものであること」などの意味だ。
どういうことかというと、特にやりたい仕事もなく、BIでわりと不自由なく生きる人々は「アイデンティティ」を意思決定基準に、「コミュニティ」を形成し始めるということだ。
今までの人々にとってのコミュニティは「企業」であり、意思決定基準は「稼げるか」とかであった。
しかしこれからは自分の「アイデンティティ」によって「コミュニティ」を決める時代が来る。
それを私は「CI(コミュニティ・アイデンティティ)」の時代と呼びたい。
アイデンティティとは「自分とは●●という人間だ」という認識だ。
これはつまるところ、自分は
どんな人と一緒にいたくて、どんな人と一緒にいたくなくて、どんなことが好きで、どんなことが嫌い
といったことを認識している状態だ。
「好きを仕事にする」とかそういう最近のトレンドは究極全てこれだ。
CIの時代は
「私はこれが好きだー!」と言って勇気を持って旗印を立て、行動し、コミュニティを創る(フォローワーを集める)
そしてコミュニティの文化を構築し、特性や独自性を統一されたイメージやデザイン、またわかりやすいメッセージで発信しフォローワーと共有することで存在価値を高めていく。
(コーポレート・アイデンティティ)と似ていることにお気づきだろうか
まさしく、100年時代を生きる戦略のひとつのことだ。
たった、これだけ。
CIの時代は
好きなことを好きと言える人が楽しい時代。
嫌いなことを嫌いと言える人が楽しい時代。
自分勝手な人が人生を謳歌する時代。
自分の好きなコミュニティを自分で創る
または、好きなコミュニティに参加する
CI(Community Identity)共同体同一性
好きな人が好きなように好きな人と好きにするコミュニティ
たった、これだけ。
CIの時代。
5、まとめ
なんでこんなことをいきなり真面目ぶって就活生の私が言うかというと、
OB訪問などを重ねた私が「あること」に気付いたからである。
それは、OBほぼ全員が口にした言葉だ。
私は「最終的にその企業(内定先)を選んだ決定的な理由はありますか?」と聞いた。
すると、OBはこう言うのだ
「最後はヒトだったよ」
あまりに多くのOBがこのセリフを言うのだ。
気になった。
なぜそこまで論理を詰めて、面接官にうんともすんとも言わせないような対策を立て、ロジックロジックうるさくしていたのに。
「最後はヒトだったよ」
ああ、わかった。
要はどこかコミュニティに属したいから会社に行くのか。
要は好きな人がいる会社にいたいのか。(雑)
そうか、好きなコミュニティに属したいのか。
ん?
これって、昔から変わってない?
サッカーが好きで、サッカー好きが集まるコミュニティだからサッカーサークルに入る。
子供の時、楽しいから集まって遊ぶ
究極そこに帰ってくるのか。
ということは、きっと人間の根本なのだろう。
AIが進化しても、BIが整っても、きっと人間はこの行動を止めない。
CIの時代が来る。