超凡大学生

どこにでもいそうでいない大学生のつぶやき

人生で最大の痛みを感じた。「わかるわかる…」と人は言うけれど、誰も他の人の痛みを本当に感じることはできない

私は相談をよく受ける

将来のことも、健康のことも、恋愛のことも。

 

人はいろいろな言葉を紡ぎ出してくれる

そして私に思いをぶつけてくれる

 

そして、私なりに私は理解に努め、私なりに隣にいる

 

ただいつも思うのは「共有」は「言葉」のみで

本当の意味での「痛み」までは「共有」できない

 

人は様々な言葉で私に伝えてくれる。

様々な相談の受け方があるから一概には言えないが、

私はよく、できるだけシチュエーションを想像し、できるだけ「共有」「共感」し、できるだけ「隣」にいて支える。(あまり余計な助言とかは言わず基本は「隣」で「聞く」)

 

それでもいつも「共感」の限界があると感じている。

それが「痛み」だ。

 

身体的な痛みもそうだし、メンタル的な痛みは特にそうだ。

本当にどれだけ心がえぐられているか、本当にどれだけ痛いのか。

 

これは自分が相談する側の時も強く感じる。

めちゃくちゃ頑張って伝えても、本当に自分がどれだけ苦しんでいるかは自分しか理解できない。

人は理解に努め、隣で話を聞いてくれるが、どれだけ本当に痛いか、同じ痛さを感じてくれはしない。

 

もちろん理解しようと努めてくれるだけで大変ありがたい。

そういうことに文句が言いたいわけではない。

 

ただ、他人の痛みを、本当に同じ痛みを、本当に共有することってできないよね

ということをだんだん悟ってきている。

 

どれだけ考えても、どうしても、どうやっても、その人に自分はなれない

人と人は交換できない。

人の痛覚と痛覚は交換できない。

自分は自分でしかなく、人は人。

 

「もしあの人になれたら、同じ痛みを本当に感じられたら、もっと共感して、もっと支えられるかもしれない、もっと自分になにかできることがあるかもしれないのに…」

 

高校生くらいの時はそんなことを本気で考えていたが、だんだんとそれは無理ということに気づいてきた。

 

どうやっても自分は自分でしかないのだ。

他人にはなれない。

 

逆も然り。

他人はどうやっても自分になれない。

 

誰も他の人の痛みを感じることはできない。

 

だから、自分で自分の痛みをどうにかしなければならない。

自分の痛みは自分にしかわからないのだから。

 

そして、私は人生で最大の痛みを感じた。

 

そう、「自分の痛みは自分にしかわからない」という痛みだ。

「他人の痛みは他人にしかわからない」という痛みだ。

  

どういう痛みか、と言われてもきっとこれも私にしかわからないだろう。

 

なんとなく寂しいというか、、、

人間ってなんか孤独だな、と感じるというか、、、

 

とても精神的な痛みだ。

 

究極的には、だれも自分のことをわかることはできない

究極的には、自分もだれのこともわかることはできない

 

だから、

自分で自分の痛みを対処できるようにならなくてはいけない。

自分で自分の機嫌をとれるようにならなくてはいけない。

 

自分で自分の道を決めなければならないと思う。

自分で自分の人生を歩まなければならないと思う。