個人を尊重する社会は、非常に寂しい
この記事に共感をする(言葉の末端が少し強すぎたりなどあるが、話の大筋には同感しかない)↓
生きるためならスーパーで豚バラと白菜でも買って鍋にすれば生きることはたやすい。餓死することはほとんどありえない。
社会的側面では偏見などもいまだあるにせよ独身差別やLGBT差別も少なくなり、女性も働きやすくなりつつある。
海外旅行に行くのも格段に安くなった。
「外部条件的には生きやすくなっている」
個人と個人が侵食しない安全な関係だけが関係として成り立つ社会は完璧な社会である。
そこに自己を脅かす戦慄はない。異性愛者がレズビアンやゲイをくどくのはタブーであり、好意がない異性同士が言い寄るのはハラスメントとなる。
そういったルールが出来上がっていくと他人が他人を見る時にも自由主義、個人主義的観点から干渉しないようになっていく。他人が自己に干渉しないようになっていくとますます個人主義が加速する。
一見すると個人が自由に生きていい社会はいい社会であるかのように見える。しかし同時に自由を尊重する社会に生きている人間は他者から侵食されない。
※上記は引用
私の働く外資企業では非常に「多様性」や「個人の尊重」を強調する姿勢が強い
ただ、私がこの記事を読んでパッと考え、思い出したことは個人を尊重すると、他者と交えにくいということである。
もう少し言うと他者とコミュニケーションをとることが恐い。
今日、ご飯に誘っていいのか
いま、話しかけていいのか
さっきの表現は、不快ではなかっただろうか…
私がこれまで個人の尊重を心がける習慣が足りなかったからかもしれないが、
想像以上に個人と個人をむすびつける「コミュニケーション」というものに時間と労力がかかる。
コミュニケーションの対象先に、例えば上司に、趣味を聞くことさえ、難しい
なぜなら
「相手は仕事を中心に生きてきていて、趣味を持たずに生きてきてきたことに非常にコンプレックスを抱えており、その系統の話題に非常にセンシティブ」
という可能性があるからだ。
もし、この場合にわたしが
「趣味はなんですか?」
と、聞いてしまうと
相手に
「人間として趣味くらい持っているのが当たり前」
という前提をおしつけている可能性があり
人によっては
「趣味をもっていないことは良くないことなの?この人は趣味を持たない人の存在価値を認めないのかしら?」
と懸念を抱いてしまうかもしれないだろう
そのために、「入社時の自己紹介」という技があるが、その場合でも「個人の尊重」が最優先事項である場合、趣味を言わなければならない理由はない。
会社としても、「個人の尊重」をしている限り、自己紹介を強要することはしてはいけないかもしれない。
そもそも、自己紹介をするかしないかも個人を尊重しなければならない。
そういったことなどを踏まえ、他の要因も含め、いろいろ考えた結果行き着く先が
「そこまでして(コミュニケーションの準備の時間や労力をかけて)趣味を聞く必要があるだろうか」
「そこまでしてこの人に話しかける必要はあるだろうか」
「自分の仕事をまずやるか」
である。
他者と交わること、他者とコミュニケーションをすることにネガティブになり
結果として「どう交わるか」ではなく、「そもそも交わらない」という選択をとる
ネガティブという表現が微妙であれば、上に掲載した記事の言葉を借りてこう言える。
「他者の自己を脅かす戦慄になりたくない
他者に侵害するものになりたくない
他者に不可侵でいたほうがリスクが少ない
だから、他者とむすびつかない、コミュニケーションをとらない」
個人を尊重する社会は、非常に寂しい